プルリス州出身。マレー・カレッジ(Malay College Kuala Kangsar)卒 業後、1994年4月マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース(AAJ)入学(第13期生)。1996年4月筑波大学国際総合学類入学、国際関係とコミュニケーションを学ぶ。2000 年3月に同大学を卒業後、東京での日系金融機関勤務、マレーシア人事院の東方政策部(Look East Policy Unit)での勤務を経 て、2004年より国 際交流基金クアラルンプール日本文化センター(JFKL)勤務。文化事業の実施を担当。 |
ハフィズさんは、今日はここにいらっしゃる前に日
本人会にいらしたそうですが、何をしていたのですか?
今日は日本人会でお箏の稽古があったのです。お箏は大学に入った時から今までずっと続けています。それから、茶道も習っています。私にとって茶道は、日本
人の心を表す一セットなのです。茶席では、季節の挨拶が交わされ、改まった美しい日本語で会話がなされます。茶室にかけてある掛け軸から、美しい日本語の
フレーズを学ぶこともできます。小さな空間で、茶器をどのような角度で置くのかなど、細かい所において美しさを追求しているのも、日本の美の心だと思いま
す。花の生け方や和菓子について学ぶこともでき、それも楽しいです。
日本人の私よりも、はるかに日本文化に浸っていま
すね。日本語もとても流暢ですし。日本に対する興味・関心は相当なものだとお見受けしますが、そのきっかけは何だったのでしょう?
いろいろな節目がありますが、そもそも日本に興味を持ったきっかけは、祖父と父の影響です。プルリス州で公務員をしていた祖父は、日本占領期に日本人と仕
事をした経験があります。祖父は日本人について嫌な思い出は一切口にせず、日本人のよい所しか語らない人でした。祖父が語った日本人のよい所は、愛国心の
強さ、友情に厚いこと、約束を守ることでした。父が最初に教育を受けたのは日本軍が接収した学校でした。父はそこでひらがな、カタカナ、童謡、民謡、軍歌
などを習いました。私が小さな頃、「桃太郎」など日本の物語や歌をよく聞かせてくれました。父によれば、日本軍は一緒に遊んでくれて、歌を教えてくれた
り、お菓子や飴をくれたりと、子供には優しかったという印象しかないそうです。
子供の頃から日本のドラマやアニメをよく見ていました。『ウルトラマン』、『ドラえもん』、『海のトリトン』、『コメットさん』、『母を訪ねて三千里』、
『スチュワーデス物語』…。
『スチュワーデス物語』!片平なぎささんが手袋を
口にくわえてはずすシーンが懐かしいですね。
そうそう!(笑)それから何といっても『おしん』!『おしん』を通じて見た日本人は、祖父や父が話す日本人の印象と重なったのです。
マレー・カレッジでは、英語のほかに第二外国語が必修でした。選択肢としては、アラビア語、フランス語、日本語がありました。当時はアラビア語が一番人気で、フランス語がその次
で、日本語は一番人気がなかったのですが、私は迷うことなく日本語を選びました。その時教わった先生は、JICAの青年海外協力隊の隊員で、日本語や日本文化を教えようとする熱
意が強く感じられました。先生方は、茶道からポップカルチャーまで様々な日本文化を紹介し、時にはお寿司を手作りして持ってきてくれることもありました。
私はこの時に山口百恵と五輪真弓について知り、彼女たちの歌を通じて日本語の表現を覚えました。こうした先生方の姿は、祖父や父が話してくれた日本人の印
象と完璧に重なりました。日本に対する興味・関心はさらに強まり、日本語の勉強にのめりこみ、日本語クラブの会長を務めました。
15歳の時、天皇皇后両陛下がマレーシアを訪問され、マレー・カレッジにいらっしゃることになりました。私は両陛下にご挨拶をする係となり、挨拶を懸命に
練習しました。しかしヘイズがひどかったため、両陛下のマレー・カレッジ訪問は中止となり、お目にかかることが叶わず、たいへんショックで悲しかったで
す。でも2006年に天皇皇后両陛下にお目にかかることができて、この上なくうれしくて幸せでした。
(この経緯については、ハフィズさん自身が「両陛下をマレーカレッジにお迎えして」と題するエッセイを執筆されてお
り、国際交流基金のウェブサイトに掲載されています。涙なくしては読めないたいへんよいお話です。ぜひご一読ください!)
その1ヵ月後、子供大使として日本を訪れる機会をいただき、長崎に2週間滞在しました。また17歳の時にもマレーシアの代表として、福岡県に招聘され2週
間滞在しました。日本に滞在して、ますます日本が大好きになりました。マレー・カレッジを卒業する時、イギリスの医学部に進むこともできると先生方に言わ
れたのですが、日本以外の選択肢は考えられず、迷うことなく日本に留学する道を選び、1994年にAAJに入学しました。
私は6人兄弟の5番目で、他の兄弟も私と同じ環境で育ったはずなのに、彼らが私ほど日本に興味を持つことはありませんでした。今思うと不思議ですね。
日本留学中はどのような経験をされたのでしょう?
大学の入学式の日は、新入生を勧誘しようと多くのサークルが新入生めがけてやってきますが、私は邦楽サークルに入りたいとすでに決意しており、自分から邦
楽サークルめがけて行きました(笑)。私の父は音楽も好きで、箏のカセットテープを車でよくかけており、その音色を美しいと思い、箏を習いたいとずっと
思っていたのです。邦楽はあまり人気がなく、日本人も少なく、留学生は私だけでした。敷居が高いと思われていたのでしょうか。
アルバイトもいろいろやりました。中でも印象的だったのは、電車清掃のアルバイトです。終電の後、車庫に戻ってきた電車の車内を清掃し、新聞、雑誌、アル
ミ缶などを分類する仕事でした。同僚はみな地元の人たちで、茨城弁でその人たちと話ができるようになり、地域社会の人たちとのコミュニケーションという点
で、役に立ちました。幼稚園生を対象とした英語の家庭教師もやりました。それから、テレビ番組にレギュラーで出演していました。『ここがヘンだよ日本人』
というTBS系列の番組で、様々な国籍の外国人が数十人参加し、日本や日本人の変な所を指摘して日本人出演者と討論するという番組でした。
私は日本の大学生さながらにあまりまじめに勉強せず(笑)、そして日本の大学生さながらに3年生後半にさしかかった頃就職活動をはじめました。その結果、
金融機関に入社することができ、2000年4月から東京で社会人生活を始めました。毎日たいへん忙しく、朝7時から夜10時まで仕事をしていました。周囲
もみな同じようなペースで仕事をしていましたが。
東京の生活のリズムは忙しすぎました。人もあまりに多くて…。たいへん疲れ、人間性がどんどん欠如していく気がし、それに慣れてしまうのも怖くて、
2002年でその金融機関を辞めました。
その後は?
2002年にマレーシアに戻りました。そして幸いにも日本に関係する仕事に就くことができました。東方政策の留学生は、マレーシアに帰国したら人事院に帰
国報告をしなくてはなりません。私も帰国報告をしに行ったのですが、その時たまたま話の流れで求職中であると告げたところ、東方政策の日本デスクに空きが
あるのでそこで働かないか?と誘われました。もちろんすぐにその誘いを受けました。
しかし2002年にマハティール元首相が首相引退を宣言したため、東方政策はこれからどうなるのだろう?という不安を抱くようになりました。東方政策と関
係ない部署に異動させられたらどうしよう?と思いました。そういう不安があったため、人事院を辞めました。
その後、JFKLに入所しました。人事院で働いていた時、JFKLが主催する日本語弁論大会で司会を何度か務めたことがあり、そうしたことがご縁となりま
した。
(文化庁文化交流使の福田千栄子さんのリサイタルで 司会を務めました。中央は尺八演奏家の北畠頌輔さん) |
(司会だけかと思いきや、なんと箏を演奏) |
(見事に演奏し終わりほっと一息)
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でしょう!「司会養成講座」な
どのような特別な訓練を受けたことがあるのでしょうか?
私は昔から人前で話をすることが好きで、それを伸ばそうとしてきました。小さい頃、スポーツが苦手で、よくいじめられました。泣いて帰ると母に、「スポー
ツができないなら他に得意なことを見つけて、それに挑戦しなさい!」と言われました。自分が得意とすることは何かを考えたところ、人前で話すことだと気づ
きました。小学校の時にStory Telling
Contestに出場しました。マレー・カレッジ在学中にディベート・クラブに所属して、全国大会で団体優勝2回、個人優勝1回という成績を収めました。
実は、マレーシアのテレビ局で、番組の司会や、番組制作の副ディレクター、脚本製作の仕事をしたこともあり、そちらの方面でもいろいろと経験させていただ
いています。
後輩に一言お願いします。
そうですね…。東方政策で日本に留学するために、マレーシアで予備教育を受けている学生たちに、体験談を聞かせて欲しいという依頼をこれまでも何度か受け
てきました。でも最近は、そうしたお話をあまり受けないようにしています。というのは、自分がこれまで辿ってきた道のりに対して、最近いろいろ迷いを感じ
ることがあるからです。
…迷いとは?
日本のことが大好きで、東方留学を通じ、日本語や日本文化、日本人の考え方などを習得してきました。それ自体はたいへん幸せなことでした。しかし、日本と
の関わりを通じて得た能力や知識が、マレーシアにおいて、必ずしも自分のキャリア形成を支えてくれていると思えない状況があります。
私はこれまで、日本とマレーシアとの架け橋のような仕事をしたいと思ってきましたし、これからもそうしていきたいと思っています。それを実現するには、マ
レーシアにある日本の組織で働くという選択肢が最も現実的であると思います。しかしマレーシアにある日本の組織では、マレーシア人が昇進する上で限界があ
ります。
といっても、そのこと自体に文句があるわけではありません。なぜならそれがシステムだからです。今の仕事も、まさに日本とマレーシアとの架け橋のような仕
事で、非常に幸せです。しかも、日本文化を紹介する事業の一環で、大好きなお箏に関する仕事をさせていただける機会も多く、そうした機会を得られるのも今
の仕事だけだと思います。また日本の本部で3ヶ月間研修させてもらったことがあり、組織としてもたいへん素晴らしいと思っています。ただ…今の状況を継続
していくとなると…自分の将来が見えてこないのです。
これまで「日本が一番!」と入れ込んできましたが、日本しか見てこなかったから日本以外のよさを知らないだけなのかもしれません。2008年の年末は、離
島にでも行って、日本に関することを一切断ち切って、これからについてゆっくり考えてみようと思いました。でもその矢先に日本人の友達から連絡があり、
「年末にマレーシアに行くからよろしく!」と…。結局、その友人と一緒に島に遊びに行き、日本から完全に離れることはできませんでした。日本から離れられ
ない運命なのかもしれません(笑)。
でも…やっぱりいろいろ考えてしまいます。現在はさしあたり、日本との関わりを維持しながら、人前で話すという方面でもいろいろと可能 性を探っています。後者に関しては幸い、いろいろと新しい仕事をさせてもらっています。
お茶を習っていると最初に申しましたが、茶道をやっていて本当によかったと最近思っています。茶室に入ると背筋がピシッと伸び、静けさ の中で心が穏やかになり、お手前の間はいろいろと余計なことを考えなくなります。現在、様々な迷いを抱える心境にありますが、茶道を通じて心の平穏を取り 戻すことができるので、茶道をやっていてよかったなと思うのです。
そして、いずれにしても、何があっても、日本のことはずっと好きでいると思います。(インタビュー日:2009年1月22日)