ニャーム・リインさん (Ms. Nyiam Li Yin:厳莉盈)

クアラルンプール出身。クアラルンプール中華独立中学を卒業後、2000年4月にマレーシア工科大 学高等専門学校予備教育センターに入学。2002年4月小山工業高等専門学校に編入、電子 制御工学科で学ぶ。2005年4月に電気通信大学に編入し、2007年3月同大学卒業。2008年4月より、在マレーシア日本国大使館広報文化センター(Japan Information Service)にて勤務。


(オフィスにて)

今のお仕事について教えてください。

在マレーシア日本大使館の文化広報センターでマレーシア人向けの日本政府奨学金の担当者を務めております。主な仕事は奨学金の応募から 学生選出までのプロセス処理ですが、翻訳やマレーシアの教育関連の情報収集などもしています。

どのような経緯で東方政策に応募したのですか?

初等教育は華語で授業を行う国民型小学校で学び、中等教育はクアラルンプール中華独立中学で学びました。1999年9月にSPM (Malaysian Certificate of Examination:後期中等教育修了時に受ける試験)を受け、2000年3月にその結果を受け取り、それから進路について考えたのですが、東方政策 のことはそれまで全く知りませんでした。

クアラルンプール中華独立中学では、クラスをいくつかのグループに分けて、グループごとに順番で掲示板を管理し、学生が自主的に自分の 作品や有益な情報を掲示板に掲載するという心がけが共有されていました。マレーシアでは毎年、SPMの結果が出る頃、政府の留学プログラムの募集が行わ れ、英語やマレー語の新聞に募集記事が掲載されます。ある日クラスの掲示板に、日本留学プログラムの募集記事が掲示され、そこではじめて東方政策のことを 知ったというわけです。私の成績は応募条件を満たしていたので、応募してみました。

日本に留学する前に、マレーシアで予備教育を受けるわけですが、それはどのように行われ ましたか?

私が応募したコースは高専に留学するプログラムでしたが、高専修了後に大学に編入する道も開かれているプログラムでした。東方政策の中 には、応募資格がブミプトラ(注1)のみに限られてい るものもありますが、私が応募したコースは非ブミプトラも応募が可能なもので、1学年約50人のうち15人が非ブミプトラでした。

(注1:)ブミプトラとは、マレー人とサバ州及びサラワク州の原住民をさす概念。

予備教育はマレーシア工科大学高等専門学校予備教育センターで行われ、2000年6月に開始しました。マレーシアで2年間、理数系の科 目と日本語を勉強してから、日本の高専に留学することになっていたのですが、1997年のアジア通貨危機により政府の財政が逼迫し、マレーシアでの予備教 育は10ヶ月で終了しました。2001年4月に日本に渡航し、国際学友会で残りの1年を勉強することになりました。現在ではマレーシアで2年間予備教育を 受けるという制度に戻っていると思います(注2)

(注2:1997年の経済危機により、東方政策の継続は困難となりましたが、留学プログ ラムについては、1998年度は日本政府の無償資金供与により、1999年度以降は円借款により継続されました。その後、マレーシア経済の回復を受け、円 借款は2004年度で終了し、2005年度以降は人事院によって予算措置されています。)

日本語の勉強はたいへんでしたか?

日本語には興味があったので、日本語の勉強は苦にはなりませんでした。日本語に興味を持ったきっかけは漫画です(笑)。中学4年生頃か ら『るろうに剣心』という漫画のファンになりました。漫画を翻訳ではなく日本語のオリジナルで楽しみたかったので、中学5年生から独学で日本語を勉強し始 めました。勉強が一番たいへんだったのは、高専の時でした。

高専では何を勉強しましたか?

栃木県にある小山高専の3年次に編入し、電子制御工学を勉強しました。電子制御とは、ハードウェアとソフトウェアを制御するシステムを 構築する技術です。ごく簡単に例えると、お風呂に冷水と温水を入れて、お風呂の水の温度を迅速に目標温度に到達させてから、一定の温度を維持するよう蛇口 の制御を行うシステムを構築するというようなものです。

小山高専には留学生が大勢いたのですか?

小山高専は1学年5学科で、1学科40人在籍しており、1学年約200人でした。そのうち留学生は7〜8人だったので、留学生が大勢い たというわけでありませんでした。インドネシア、スリランカ、フィリピン、モンゴルなどから留学生が来ていました。

私のクラスにはインドネシア人留学生がいて、私はその人をライバル視していました。というのは、彼と私はクラスの成績上位者を争ってい たからです。といっても、私がその競争に加われたのは5年次になってからでした。高専に入学してしばらくは、日本語で行われる授業が十分理解できなかった のです。でもそのインドネシア人留学生は、3年次からトップクラスにいたので、感服していました。高専の卒業式では、一定の成績を取った学生に優秀賞とい うのを授与しているのですが、私もその賞をいただくことができました。クラスで5〜6人しかもらえない賞でした。

なんと!とても優秀だったのですね!最初は日本語で行われる授業が十分理解できなかった ということですが、そこをどのように乗り越えたのでしょうか?

小山高専は留学生にチューターを一人つけていました。授業のノートをチューターに見せて、その授業がどのような内容だったのかを教えて もらいました。それを繰り返しているうちに授業が理解できるようになりました。私のチューターをしてくれた人はとても優秀で、どの授業についても分かりや すく十分に教えてくれました。

高専は、教員・職員ともに留学生を支援する体制がしっかりあり、日本の礼儀や文化についてもいろいろと教えてもらい、留学生が歓迎され ているなと感じました。高専は一学科約40人が卒業までずっと同じクラスで過ごすので、クラスのみんなと仲良くなることができて、とても楽しかったです。 先生と生徒の関係もとても近く、分からない所を気軽に先生に聞くこともできました。

課外活動はなにかしていましたか?

友人がお茶の水に楽器を買いに行くと言うのでついていったのですが、それがきっかけとなって、吹奏楽部に入りました。楽器はフルートを 担当しました。ピッコロも吹いたことがあります。地域の人たちとの交流ということでは、小山市にある老人ホームや手足が不自由な人の施設を、留学生たちで 訪問したことがありました。


(学園祭でのステージ)

(部室で食事)

(定期演奏会)

(演奏会終了後にみんなで記念撮影)

関東甲信越地方にある高専の間で、毎年英語スピーチコンテストが行われており、それに参加したことがあります。上級者の部と初級者の部 があり、私は上級者の部に参加し、優勝しました。それまで小山高専は入賞したことがなく、私がはじめて小山高専にメダルをもたらしたので、卒業式で学外活 動の代表者として表彰されました!私がそのスピーチコンテストに出るのはフェアではないと思われるでしょうが、実はそのスピーチコンテストの上級者の部の 参加者は留学生が多かったのです(笑)。1年前の優勝者も留学生でした。

高専でいろいろな人と出会ったり、助けてもらったり、様々な体験をしたりして、人生で一番貴 重な青春時代を小山で過ごせてよかったと思います。今でも小山を自分の日本の故郷だと思っています。

日本に行って驚いたことは何かありましたか?

アダルト雑誌・漫画がコンビニなどでたくさん売られていることに驚きました。

日本では、ビキニを着た露出度のかなり高い女性の写真が、雑誌や漫画の表紙として電車の 中吊り広告になっていますね。マレーシアではそういう広告はまず目にしないから、驚く人も多いでしょうね。

そういえば、広告が多いなとも思いました。情報があちこちにあるという印象です。あと、ティッシュが無料というのも驚きました(笑)。

高専を卒業した後も勉強を続けたのですか?

はい。電気通信大学の3年次に編入して、システム工学を学びました。高専で電子制御工学を学んだわけですが、制御システムの構築におい てこれからは技術だけではなく、生産マネージメントや品質管理など多方面の学問も重要になると思ったので、大学のシラバスを調べた上で電気通信大学のシス テム工学を学ぶことにしました。


(雅楽演奏会場で)


(ホテルの結婚式場での
アルバイト。
横笛の演奏を担当。)

学を卒業してからは?

2007年3月に大学を卒業して、同4月にマレーシアに帰国しました。マレーシアに帰国した時、日本が懐かしくて、「ホームシック」に なりました(笑)。日本には計6年間滞在したのですが、その間2回しかマレーシアに帰らなかったのですよ。日本で仕事をしようとも思ったのですが、常日頃 からいろいろなお客さんに接して営業を行っている父が一枚上手で、「自分の好きにやりなさい」と励ましてくれつつも、両親の寂しさを巧みに訴えかけてくる ので、マレーシアに帰ることにしました(笑)。

マレーシアに帰国してから、日本語を使う仕事に就きたいと思っていました。6月頃、親戚の紹介で日系企業の面接を受けたのですが、その 仕事がマレーシア人を対象とする営業職であり、日本語を使う機会がほとんどないことが分かり、その仕事は結局受けませんでした。就職先はなかなか決まら ず、次第に焦りを感じ、9月に親戚の紹介でコンサルタント会社を受けました。その会社は日系企業も顧客としており、日本人に日本語で対応するという仕事を 得ることができました。しかし日系企業の顧客は、当時はまだそれほど多くはなく、日本語を使う機会もあまりありませんでした。大使館での仕事が決まって、 自分が辞めることになったころから、日系企業との仕事が増えたようですが。

これから東方政策で留学する学生さんに何か一言。

マレーシア人だけで固まらず、日本人の学生とよく交わって欲しいです。その中で日本文化や日本人の考え方に触れて欲しいですね。

(インタビュー日:2009年1月17日)