ウ ンク・オマル・ポリテクニック(Politteknik Ungku Omar)を卒業後、1984年4月に日本に渡航し、1年間日 本語を学ぶ。1985年4月に木更津工業高等専門学校に編入学、電気電子工学を学ぶ。1987年4月に豊橋技術科学大学に 編入学。1990年4月にJVCマニュファクチャリング・マレーシア( JVC Manufacturing Malaysia Sdn. Bhd.)に入社し、2年間日本で研修を受けた後、1992年よりマレーシアで技師・設計士として勤務。1996年に退社し、独立。2000年以降、東方政策元 留学生同窓会(Alumni Look East Policy Society: ALEPS)会長を務める。 |
東方政策で日本に留学することになったきっかけを教えてくだ
さい。
私はイポーにあるウンク・オマル・ポリテクニックを卒業しました。私の同級生と、クアンタン・ポリテクニックの卒業生の成績上位者合
わせて30人が、東方政策の高専プログラムの第一期生に選ばれました。ポリテクニックを卒業して6ヶ月経った頃、「日本へ行け」という電報が来たのです。
しかしそれは、日本に渡航する1週間前でした。意向を聞かれる間もなく、ほぼ命令同然でした(笑)。
日本に渡航したのは1984年でした。我々30人は、新宿にあるInternational Student
Instituteと、池袋にある機関とに15人ずつ分かれて、日本語、数学、化学を勉強しました。日本語はこの時に始めて学びました。1年間で漢字
2000字を覚えました。これは、1日当たり5字を覚えるペースにあたります。今日の漢字を覚えても、3日前の漢字を忘れ始めているという状況で、毎日た
いへんでした。会話に関しては、最初の3ヶ月は言葉がさっぱり分かりませんでした。5ヶ月経った頃、相手が何を言っているのかだいたい分かるようになり、
6ヶ月経った頃、相手の質問にあった返答できるようになりました。
この頃、いろいろな所に旅行に行きました。春には花見に行き、秋には紅葉を見に行き、冬にはスキーに行きました。富士山にも行きましたよ。日本人が1人
チューターとして我々の寮に同居しており、その人があちこち連れて行ってくれました。
日本に来て1年目でそんなにたくさんの所に行かれたとは、み
なさんの活発さや好奇心の強さがうかがえます。で、1年が過ぎて…
木更津高専の3年次に編入し、ポリテクニックで専攻していた電気電子工学を学びました。同期生のうち4人が木更津高専へ進みました。その後、豊橋技術科学
大学の3年次に編入しました。専攻は同じでしたが、特に太陽電子について学びました。
日本に留学していた間、たいへんだったことや、嫌だったこと
はありましたか?
うーん…ないですね。自分はもともと楽天的で、「やればなんとかなるだろう」、「自分が努力すればなんとかなるだろう」と思う性格な
ので、たいへんなことをあまりたいへんだと思わないのでしょう(笑)。
大学を卒業した後、マレーシアに戻ったのですか?
いいえ。1990年3月に大学を卒業した後、JVCマニュファクチャリング・マレーシア(以下、JVC)に入社しました。同社は日本ビクター社のマレーシ
アの現地法人でしたが、4月にはまたすぐに日本に送られ、2年間日本で研修を受けました。当時も今もそうなのですが、マレーシアにある日系企業には、マ
レーシアから日本に人事担当者を派遣し、東方政策留学生と面接をすることがあります。私も2社ほど面接をしました。いずれも素晴らしいお話だったのです
が、一方の企業はマレーシアに拠点を置いてすでに5年が経っており、他方JVC
はマレーシアに拠点をおいたばかりでした。パイオニアとして仕事をしたかったので、日本ビクターを選びました。
マレーシアに帰国したのは1992年です。JVC で技師・設計士として働き、コンポなどの電子回路の基板を設計しました。8モデルを設計しました。
現在は確か、ご自身で事業を行っていると伺っておりますが。
はい。1996年に独立して、電子・電気部品を取り扱う貿易会社を設立しました。台湾、韓国、日本などから商品を仕入れ販売していま
す。JVCにいた間に人脈を作っていたので、すぐに仕事が入ってきました。でも最初の3年間はものすごく働きました。仕事を得なければ、またその仕事をき
ちんとこなさなければ、次の仕事に繋がりませんから。
独立したきっかけは?
JVCにいても将来の自分が見えないと思ったからです。日系企業は一般的に、10年くらい勤めると飛躍的に給料が伸びるのですが、それまでの増加はあまり
ありません。それに対して欧米系の企業は、2年目から大幅に給料が上がる給与体系になっています。そういうのを見てしまうと、自分の労働環境をなかなか受
け入れることができなくて…。また今後、自分がどこまでキャリアアップできるのかも、なかなか見えてきませんでした。
まずALEPSについてですが、ALEPSは第一期生が帰国した1988年に設立されました。帰国した元留学生たちが自発的に同窓会を組織し、最初は自分
たちだけで活動をしていました。その後、マレーシア政府人事院から同窓会を組織することを勧められ、人事院の協力も得て登録しました(このあたりの経緯を
もう少し正確に記述していただけると助かります。またALEPSの紹介も適宜入れてください。)。
私は1994年から会計を務め、2000年から会長を務めています。会計を務めていたころ、2回マハティール元首相にお会いしたことがあります。マハ
ティール元首相は、「東方政策の留学生は政府の奨学金で留学している、つまり国民の税金で留学しているのである。奨学金をお金で返すのは難しいが、
ALEPSを通じて社会奉仕やボランティア活動を行い、マレーシア社会に還元して欲しい」と述べられました。ALEPSの顧問であるUngku
Aziz氏も同様のことをおっしゃっています。私は、そうした社会的責務を全うするために、ALEPSに積極的に関わらねばならないと思うようになったの
です。
ALEPSの活動は…人を集めるのがたいへんです。ALEPSの会員数は約3600人なのですが、積極的に活動に関わっている人はあまり多くありません。
Executive memberが現在13人いて、中心となって活動するメンバーが約30人、年次総会への出席者は40〜50人という程度です。
ALEPSの活動に時間を割くということは、留学から帰ってきたばかりの人たちには難しいことなのだと思います。ALEPSのメンバーの85%は日系企業
に勤務し、10%が欧米系・地元系企業に勤務し、5%が自分で事業を行っています。仕事をしていると自由な時間が少なく、平日はまず無理ですよね。私は自
分で事業を行っているので、自分の時間を比較的自由に作れますが。また自営であれば、人脈の拡大・発掘のために積極的に参加するというのもあるでしょう
が、会社に所属していれば特にその必要を感じない人も多いでしょう。同期の同窓会は比較的活発に行われているようです。
ALEPSのメンバーに、何を優先するか?についてアンケートをとったことがあります。その結果は、1.就職、2.お金を稼ぐ、3.彼/彼女を作る、4.
結婚、5.家族を成す、6.家・車の購入、7.同窓会の活動、8.宗教という順番でした。若いうちは生活基盤を築くのに精一杯ですが、第1期〜第5期生の
年代約500人が、現在「家・車の購入」の段階に来ているので、もう少ししたら同窓会の活動に積極的に関与してくれるのではないかと思います(笑)。
ALEPSは今後も、大使館と様々な活動をしていきたいと思います。また大使館以外の日本関連機関とも、もっといろいろな活動をしてきたいと思っていま
す。
後輩たちに一言。
大学を卒業したらすぐマレーシアに戻ってくるのではなく、日本で働いたり、研修したりしてから戻ってきたほうがいいと思います。大学で学ぶことと、社会で
学ぶことは、全く違います。自分が大学で学んだことを生かすような仕事を、日本の社会で経験してきてください。それによって、社会人としての知識・経験を
養い、日本のシステム・組織について理解できます。そうした知識や経験がないと、マレーシアに戻っても、日本語ができるということで、通訳としての役割し
か与えられなくなる可能性があります。
それと、日本についてよい面も悪い面も経験すると思いますが、よい面をマレーシア人に積極的に伝えて欲しいと思います。それは一つの社会貢献になると思い
ます。
(インタビュー日:2009年1月22日)