マレーシアのみなさんに聞いてみました #3

令和4年5月26日



外国に住みたかった
 
「子どもの頃からずっと、単なる旅行ではなく、一度は海外の国に住んでみたい、そう思っていました。テレビでしか見たことのない外国。その国の人々がどういう生活を送っているのか、自分だったら、その国でどういう生活を送るのかとても興味がありました
 
成績が良かったこともあり、海外の大学に留学をする機会に恵まれました。英語は苦手だったので、日本、韓国、ドイツあたりに留学できればいいなと思っていたところ、行き先の候補としてイギリスと日本が挙がりました。
 
高校は技術系の学校に通っていました。当時、日本の電化製品が自宅にもあり、このラジオはどのように作られているのかな、この音楽プレイヤーはどうしたら作れるのだろう。すごいな自分も作ってみたいな、といつも思っていました。
 
必然的に留学先は日本に決まりました。
 
果物と雪があるから
 
マラヤ大学の予備教育機関Ambang Asuhan Jepun(AAJ)に通っていた頃、日本のどこの大学に留学しようかなと考えながら、自分なりに色々調べた結果、果物の栽培が盛んで、冬には雪が降るという理由から、北陸地方にある大学に行きたいと思っていました。
 
自分の希望をAAJの先生に話をしたら、そんな理由で行く先を決めるな!と怒られてしまいました。自分で言うのも何ですが、成績が良かったので、先生たちは自分の専門分野や将来のことを思って、東京工業大学、名古屋大学、大阪大学のいずれかへの派遣を考えてくれていたようです。
 
結果として、名古屋大学に留学することとなりました。
 
また有り難いことに、東方政策第16期生として日本に留学させてもらうことと同時に、日本の国費留学生として文部省(当時)からも奨学金をいただくことになりました。
 
研究結果を「かんこー」する!?
 
AAJでの2年間を経て、晴れて名大生になりましたが、最初は、とにかく授業についていくことが大変全然理解できなかったですね。と言うのも、AAJで習った日本語は標準語で、教科書の日本語でした。授業では、名古屋弁をはじめとする日本語の方言もあり、教科書には出てこない生きた日本語が飛び交っていました。早口の先生も多かったですし、黒板の字も読みにくかったです。
 
期末試験も厳しかったです。数式を用いて回答するものは問題なかったのですが、論述するものは、漢字を書かなくてはいけないこともあったので。なので、最初のうちは、とにかく丸暗記をして試験に臨んでいました。
 
人生の4分の1を名古屋で
 
結果的に、学部、修士、博士の計9年間を名大で勉学に励み、研究活動に勤しみました。学部は東方政策及び日本政府奨学金、修士は日本政府奨学金。博士過程はいまの勤務先からの奨学金で。9年間をすべて奨学金で勉学や研究に集中できたことは、有り難かったです。
 
勉強も頑張りましたが、名古屋での生活も楽しみました。毎年6月に行われる名大祭では、マレーシア料理の屋台を出して、当時日本で大流行していた「だんご三兄弟」にあやかってバナナ団子を売ったり、スイカジュースを売ったり。

週末はサッカー火曜日と木曜日はバドミントンを、他の大学の学生とも練習試合をして楽しみました。旅行は院生になって日本各地で行われる学会に出席するようになってからです。日本のあらゆる都市を訪問しました。ホームシックになったこともなかったです


出身はマレーシア最北端、勤務先は最南端
 
博士課程への進学を考えた時に、東京のマレーシア大使館を訪問し、申請できる奨学金を調べてもらったところ、Kolej Universiti Teknologi Tun Hussein Onn(KUiTTHO)が、2006年に正式な大学としてマレーシア政府から承認される予定で、博士号取得済みの教員を募集中。学校側が博士号取得までの3年間の奨学金を支給する代わりに、博士号取得後はこの学校の教員になる。このような制度を知りました。校名をKUiTTHOから改め、Universiti Tun Hussein Onn Malaysia(UTHM)が現在の勤務先です。
 
私の出身は、タイとの国境にあるマレーシア最北端のペルリス州。勤務先のUTHMは最南端のジョホール州にあり、シンガポールは目の前です。
 
日本からマレーシアに帰国後、地元ペルリスにある大学で研究することも考えたのですが、縁あってUTHMに勤務して、はや14年になります。
 
日本式教育をマレーシアで実践=学生の就職率100%
 
UTHMでの勤務を開始した頃は、名大に当然のようにあった機器や設備はありませんでした。いずれも研究には欠かせないものでしたので、ひとつひとつUTHMに提案をしながら、施設を整備していきました。
 
また、日本で経験した研究室の体制教授の学生に対する指導の姿勢は、日本の優れた点ということを痛感しています。例えば、ほぼ毎日、実験を行うこと。その実験に使う各種装置を学生自らに操作させること - 高額な各種装置を学生に使わせることは、故意でなくても壊される危険性がゼロではありません。それでも実際に使用し経験を積むことは、学生にとって非常に重要です。
 
その他では、例えば、日本の大学では、研究に関する打ち合わせを毎週すること。研究作業が緻密に計画されること。指導教授が細かく論文のチェックをしてくれること。
 
私がUTHMで学生を指導する立場となり、これらのことを実践しています。私が所長を務めるUTHM統合工学センターの卒業生の就職率は100%です。もちろん学生の努力もありますが、私が実践している日本式教育のお陰とも自負しています。
 
マレーシアと名大との強い絆
 
東方政策では、第1期生から名大に学生を派遣しており、私費留学生を含め、マレーシアには、相当数の名大卒業生がいるにもかかわらず、名大の同窓会がありませんでした
 
名大に同窓会のマレーシア支部設立の提案をしたところ快諾してくださいました。その後、色々な調整を経て、2016年2月、KLにおいて、松尾総長(当時)ご出席のもと、名古屋大学全学同窓会15番目の海外支部となるマレーシア支部の設立総会が行われました。初代支部長として、支部認定証・支部旗が授与されたときは、身の引き締まる思いと同時に、名大の仲間と強い絆で結ばれていることに、あらためて感激したことを覚えています。

また、マレーシア支部の立ち上げの功績が認められ、2019年に「名古屋大学国際交流貢献賞」をいただきました。

                         

絶対、最後まで挑戦、あきらめない!
 
日本への留学を控えているマレーシアの学生、つまり後輩のみんなに言いたいことは、日本に留学したら、先ずは恥ずかしがらずに、自分から声を掛けてみよう友達を作ろう、ということです。特に最初のうちは授業にもついていけないだろうから、ノートを貸してもらえるような。そして、週末に一緒にスポーツを楽しめるような。そんな友達がいない4年間はとても長く感じると思います。せっかくの機会です、勉強を、生活を、楽しくできるよう工夫をしよう、ということです。
 
そして、絶対、最後まで挑戦、あきらめないこと。その結果、色々なチャンスを自分で掴みに行って欲しいと思います。」